大阪の事件

 大阪で3歳と1歳の子どもが母親に遺棄されて餓死した事件から一月半ほど経ちます。この事件が新聞やテレビ等で報道されている頃、あまりにもむごい内容に私は思わず目や耳を塞ぎそうになったことがしばしばでした。これまで虐待などで非業の死を遂げた多くの子どもがいます。私が覚えているのだけでも、継母に熱湯を掛けられて亡くなった小4の男児、踏切で線路に靴が挟まって抜けなくなり迫ってくる電車にひかれて亡くなった小2の女児、友達のいじめで体育用のマットにくるまれて亡くなった男子中学生、等々。私も含め社会は、いつの間にかこれらの事件を忘れ去ってしまいますが、やはり記憶にとどめ、この子たちの霊の安らかならんことを祈り、同じような事件を繰り返さないように努めていく必要があると思います。
 大阪の事件では、23歳の母親は、最初は子どもを可愛く思い、ブログに書いたりもしていたが、夫(結婚当時は大学生)と離婚し大阪に出てきて風俗店で働き始めた頃から育児が疎ましくなり、最後は完全な育児放棄に至っています。子どもを置いたままの外泊を繰り返した後、ついには食事も水も与えずにマンションに閉じ込め、しかも出られないように部屋のドアに粘着テープまで貼って長期に外泊しています。部屋の壁やドアには子どもが触ったり引っ掻いたりした傷跡があったということ。本当に、人間はどこまで残酷になれるのでしょうか。
 児童虐待事件の統計をとると、主な虐待者は実母で全体の約6割を占めていますが、実母がなぜこのようなことになるのか。母性愛は本能的なものであり、自分のお腹を痛めた子は無条件に愛おしい存在であるともいわれるように、世のほとんどの母親は何はなくとも我が子を懸命に育てています。それでも一部には、望まない妊娠の子であったり、子の父親と憎しみあって離婚した後など、最初から子に愛情が湧かなかったり、子に相手の男性の影が投影されて憎しみが湧いてくるなど、本能を超える要素が出てくるのかもしれません。
 そのような場合も含めて、母親本人や社会がどう対処していかなければならないか。私は、子どもは母親や父親の子であると同時に、社会の子であるという意識を徹底させることだと思います。生まれ落ちた途端に子は一つの人格を持ち誰からも侵されないはずなのに、子連れ心中事件が起きたり、虐待により我が子をあやめたりするのには、子を自分の所有物とする思考が強く働いています。また、虐待にはそれに加えて、自分のストレスを自分よりも弱い存在のものにあたることにより発散する「いじめ」の気持が人間の性として働いています。
 大阪の事件の場合、この母親が育児を疎ましく思い始めた頃に相談に乗ってあげる身近な人がいなかったのが大変不幸です。祖父母の関わりもなかったようですし、ママ友もおらずに孤立していた。住民登録をしていなかったために名前も分からず、近所の人や民生児童委員も関わりようがなかったようですが、とにかくそのような母親に対しても、自分で育てられなくなったならばいつでも相談に乗ってくれるところがあるという情報がインプットされていなければならなかった。保育所や子育て広場、児童養護施設など、社会的な養育のための資源は整っているのですから、この母親に自分だけで悩まずに気楽に相談に行く気にさせる環境が必要であったと思います。もしそのような環境がなかったとすれば、子どもは自分の子であるだけでなく社会の子でもあるという倫理観の涵養と併せて、マスコミも含め行政広報等が今後、喫緊にそして気長に取り組まなければならない課題であると思います。
 もう一つ、児童虐待事件が起きるたびに問題になるのが児童相談所等の対応が適切であったかということですが、大阪の事件も、近所の人の通報で子ども家庭センターの職員が駆けつけたが、ドアが開かなかったために帰ってきたということです。通報があり、現場まで行ったのに助けられなかったのは極めて無念なことですが、この事件を機に、厚生労働省は緊急の全国児童相談所長会を開き、通報から48時間以内の安全確認と、虐待が疑われる場合の強制力を伴った児童の速やかな保護を徹底することとしていますので、今回の二人の子の犠牲を本当に最後にしてもらいたいものです。
 先日、友人とこの事件について話をしていて、この事件は現在の社会が抱える病理の一端ではあるけれども、昔から日本には、生まれた子どもの間引きや子どもの身売りなど、必ずしも子どもが大切にされてきていない部分がある。私たちにとって子どもの幸せの追求は日本社会のありように関わる永遠のテーマであり、しっかりと向き合っていかなければならない、というような結論になりました。
 大阪の事件を忘れないようにしたいと思います。