地震、津波、原発事故・・・再生の町へ

  昨年の3.11東日本大震災では、息子、娘それぞれの一家も含め、幸い、家の損壊や身体の怪我など、直接的な被害はありませんでしたが、停電や物不足など、関東地区の多くの人が被った被害にはしっかりと直面しました。しかし、東北地方で甚大な被害にあった方たちのご苦労を思えば我慢の出来るものばかりでした。というよりも私としては、東北の被災地に、復旧、復興の支援ボランティアに行きたい気持ちでいっぱいでしたが、年齢や体力的なことを考えて我慢せざるを得ませんでした。
  しかし、この度、ついに被災地を訪れる機会ができました。場所は福島県南相馬市福島第一原発から北に10〜30km離れた、太平洋沿いの町です。
  私ではなく若い人たちがチームを組み、昨年1年間、毎月1回、宮城県石巻市で瓦礫除去等のボランティア活動を行ったのですが、これが一段落したため、今年1年間は原発事故の影響を受けた南相馬市福祉施設の活動を支援することとなり、その最初の打ち合わせに私も行ったのです。
  東京を出たのが夕方6時頃。本当は常磐自動車道国道6号線をつなぐルートが最も近いのですが、原発事故の影響による不通箇所がはさまるため、東北自動車道経由としました。福島西インターで降りて国道114号線と主要地方道12号線を使って現地入りしました。阿武隈高地を横断するこの12号線は、本来、䖝がきれいな素敵な道路なのですが、残念ながら夜間の通行。しかも、沿線沿いに点在する商店や民家はどこも真っ暗でした。対向車はたまに来るのですが、とにかく道路上や建物にはまったく人の気配がありません。つまり、原発事故のために全村避難をしている飯舘村を通過していたのでした。無人地帯が延々と続き、同行4人、言葉もありません。
  夜11時頃に、今晩泊めてくださる南相馬市内の関係者のお宅に到着し、遅い夕食をよばれながら1時頃までご主人のお話をうかがいましたが、あらためて、自分は今、大震災の被災地に身を置いて居るのだとの感を深くしました。
  翌日は、目的の福祉施設で、責任者の方たちと挨拶を交わし、打ち合わせ。その後、施設の方が車で市内を案内してくださいましたが、市の中心部を少し海沿いに離れると、そこはいわば「無」の世界です。津波で全てが流されて、田んぼ跡のようになっただだっ広いところを指しながら、「ここの部落の方は70人亡くなられました」「あちらの方に見える部落の方は○○人亡くなられました」といった説明が続きます。案内してくださったお一人の方は、奥様のご両親がやはり津波で亡くなられたとのこと。「町に買い物に行っていたので、そのまま高台に避難すればよかったものを、自宅に戻ったために家ごと津波にさらわれた。遺体安置所を訪ね回り、やっと1ヶ月後に二人の遺体を探し当てることが出来た」とのお話でした。
  瓦礫を集積した場所に行くと、コンクリ片だけ、木材だけ、瓦だけ等々、誠にきれいに分別されていて、どこもそうなのですが、日本人らしい几帳面さの表れだと思いました。その中で胸が痛んだのが、車の残骸が何十台も積まれたところです。人が乗っていた車もあるのでしょうが、一様ではなく、様々な形に潰れています。
  いずれにしても、最初に案内された一帯は、地震津波被害の後片づけはほぼ終了しているようでしたが、この後に案内された地区はまったくそうではありませんでした。原発事故による避難地区となったところでは、地震津波被害に遭った建物等が3.11直後のまま放置されているのです。この南相馬市は、福島第1原発から半径10〜20km圏内と20〜30km圏内の両方を抱えており、避難区域となっていない20〜30km圏内は上記のように瓦礫の片づけ等は終わっているのですが、今年の4月16日にやっと避難解除となった10〜20km圏内ではまだ片づけがまったく進んでいないからです。
  今回少し理解できるようになったのですが、避難地区というか、住民の立ち入り禁止地区の設定にはいろいろあって、必ずしも福島第一原発からの距離だけで決められているのではないようです。1〜4号機が水素爆発した時の風向きにより放射能の線量が多くなったところでは、飯舘村のように30kmを越えていてもいまだに避難指示が出ていますし、10〜20km圏内でも線量が少ないところでは、避難指示が解除されたところもあります。また、避難地区でも、住民の立ち入りがまったく禁止されている地区と、住むのではなく、日帰りで立ち入ることだけなら認められている地区もあります。
  というわけで、10〜20km圏内だが避難解除になったばかりの、南相馬市小高地区にも入ることが出来たのですが、ここは3.11以降、ほぼまったく手つかずの状況のままでした。辛うじて建っているが、部屋が空洞となっている家、道路下でフロントを上向きにして立っている乗用車、瓦礫が自然と集積した荒れ地、等々。1年間余、放置されたままの家では、雨漏りにより布団や家具類が水浸し等になって、また住めるようになるにはまだ相当の時間と費用を要しそうです。他地区に比べ、3.11からの復旧に大きく遅れをとっている福島県内のこれらの地区のことが、決して社会から忘れられないようにする必要があると、痛感しました。

※立派な瓦屋根を持つ民家が3.11大地震により崩落して道路を塞いでいますが、直後に原発事故による立ち入り禁止地区となったために、1年以上経った今もそのままの状況で放置されています。
  ところで、今回の南相馬市訪問で、原発問題への私の考えは大きく変わりました。日本のようにエネルギー資源をほとんど持たない国で、経済を支えていくためには原子力を利用せざるを得ないし、地球温暖化防止のためにもそれは必要だと考えていました。この夏の電力供給は、関西電力等、3電力の管内を除けば賄える見通しのようですが、これは、火力発電のフル稼働によるものです。あれほど騒いでいた、CO2の増加による地球温暖化の問題はどうするのでしょうか。フランスのように原発の安全維持のシステムを見直せば、日本も立地条件のよいところに限っては原発の再稼働を認めてもよいのではないかと思っていました。
  しかしながら、無人の避難地区を車で通ってその広大さを実感し、測定器を持ちながら避難解除地区を歩いて見えない放射線を恐れ、除洗といっても「放射能そのものは無くならず、場所を変えて存在し続ける」という話を現地の人に聞くなど、今回、原子力の問題に直に直面をして、やはり私でも考えが変わらざるを得ませんでした。 
  どこかに誰かが書いていましたが、原子力の利用は、核兵器にせよ、平和目的のものにせよ、「神の領域に人間が手を突っ込む」ことです。人間が制御できないものを人間の手で創り出してはならない。少なくとも、原子力発電の全行程において水素爆発が絶対に起きない技術、及び、いったん生じた放射能を無くす技術の両方が確立されるまでは、原子力発電は行うべきではないと思います。火力発電にも頼らないとすれば、一層の節電と自然エネルギー発電を飛躍的に推進していくよりほかありません。たとえ日本経済が停滞し、今よりも困窮生活になろうとも、人命と国土を護るためには、国民が心を合わせて、日本を脱原発に方向転換していくしかないのではないでしょうか。