幼児の宗教教育

 前回の話題、ゲームに負けて大泣きをしたYちゃんに関連した「子どもとゲーム」、「子どものわがまま」などについての良いアドバイスを求めて、私の叔父(父の弟)が国立大学を定年退官したときに編纂された記念論文集の一冊、「幼児教育学の系譜」を少し読んでみました。25年前に出版されたものですが、教育学、特に幼児教育学を専門として生涯にわたり研究し、今は病床にある叔父(と、その弟子に当たる研究者の皆さん)の理論と思想が詰まった本です。私の専門外の学術書であったために、自分の子どもの養育期にも全然読まず、書棚に飾っておくだけでしたが、孫のしつけや教育に少し役に立つものがあるのではないかと思いました。ルソーやペスタロッチの本もいまだ読まれている現在、それらと同列には出来ないかもしれませんが、「昔の教育理論なんて役に立たない」(妻の言)ことはないはずです。
 この本では、幼児の自我形成とその発達段階における遊びの役割のようなものが種々論じられていましたが、そのほかに私が特に関心を持ったのは、幼児の宗教教育の必要性に触れた論文でした。その論文に教示を受け、啓発された主なポイントは次のとおりです。
①幼児期から持つ道徳として涵養すべき、生命を大切にする、ともに生きる、自他敬愛の精神などの、いわゆるヒューマニズムの根底を支える価値観とは何か、を追求していくとき、そこにはどうしても、宗教の世界が潜在しなければならない。
②目に見えない妖精や魔物、童話の中のキャラクターたちと現実・日常のものとを区別せず、過去と未来との往来も融通無碍であるというのが幼児期の特性であり、宗教性との関係が深い。
③幼児期の学習は、その後の成長発達と教育の基礎となることから考えれば、この時期の宗教性の教育は人格形成に大きな意義を持っている。
④大人の抱いている善悪の判断基準も時には違いがあり、子どもは誰が正しいのか分からなくなるときがあるが、宗教の持つ絶対の力で道徳を照らすとき、人間の道徳は真に生きたものになる。 
⑤報いを求めない愛の行為こそが至高の愛であり、人々の心の深みに真の喜びを感じさせる。幼い子どもでも、周囲の大人が目に見えない神の愛や仏の慈悲を感じつつ、そのような愛を持とうとしているのを見ているうちに、同じ喜びを持つようになる。
⑥幼児期に何らかの宗教に触れた経験を持っていることが、大人になって大きな力を持つことになる。
 確かに、人生のさまざまな段階や場面において、人間の力を越えた、何か大きな存在に救いを求めたり、生きる指針や力を求めたくなるときが、誰にでもあると言えます。その最大の場面は死を迎えようとするときです。あの日野原重明先生は、以前から、臨床医の立場として、死を迎える患者の医療看護に、宗教家の力が必要不可欠であると主張しておられるそうです。また、平時においても、自分の人生のバックボーンとして信仰や信心を持っている人の強さはいうまでもありません。
  マルクス主義的な唯物論はさすがに流行らなくなったものの、何となく無神論の人たちもいますし、戦前の軍国主義の中で強制された誤った宗教教育の反動からか、現憲法教育基本法の下では、公教育の中で宗教教育はなされていません。そのような環境下で子供たちにどのようにして宗教的な心を育てていくかについては、いろいろと考えられると思います。
  宗教教育を教育方針とする私立の幼稚園や学校に子どもを入れること、家庭の中で親自身の信仰や信心を見せたり、宗教的な行事に子供たちを参加させることなどです。前述の論文には、子どもにもっと自然に触れさせ、自然の中で生きる体験をさせることが課題とありました。自然の美しさ、不思議さを発見させ、その中から創造主への畏敬の心が生まれると。

世界最大の阿弥陀仏像・・・牛久大仏
  Yちゃんの幼稚園は、ミッション系ではありませんが、遠足幼稚園と呼ばれているくらいに街の中の公園に散歩をしたり、山登りをして、子どもたちに自然に触れさせています。そしてYちゃんは、我が家に来ると、「のんのさま」にお参りをすると言って、仏壇に手を合わせて(ついでに鉦を力一杯叩いて)くれます。LちゃんもKくんも、いずれそうしてくれることと思います。人間は他の生き物の命をいただいて、自分の命をつないでいます。そのことに心からの感謝を込めて、食事の前に「いただきます」、終わってから「おごちそうまさまでした」の言葉だけは忘れないよう、我が家に来た孫に守らせています。
  あらためて、信仰や信心の大切さに気づかせてくれた、叔父の本でした。