一冊の本

 回想趣味ついでにもう一題です。岩波新書などで過去に同じような企画があったような気がしますが、「自分の人生において一番感銘した、忘れられない本は何か」ということを考えてみました。
 昔は世界文学全集的なものが筑摩書房などからときどき出版されていて、文学好きな父が購入し、その中で何冊か感銘を受けた本があります。その一冊で、英国のクローニンの書いた「城砦」は、医師になったばかりの青年が赴任先の炭鉱町で小学校の教諭の女性と結婚。社会を改革する理想に燃えて抗夫の健康問題などに取り組み、志を果たしていくのですが、やがて王立医学会会員となってロンドンで華やかな世俗的成功も収め、上流階級の女性の誘惑に溺れたりします。しかし、最後には目覚めて深く反省し、そのようなことがあっても明るく健気に信じて待っていた妻の元に帰り、出直そうとしたその直後、妻は交通事故で亡くなってしまうという、悲しいストーリーです。これを大学生のときに読んで深く感動。私のその後の結婚観や人生観に大きな影響を与えられたような気がします。
  また、やはり大学生のとき、「自由」という月刊の思想雑誌を定期購読していたのですが、それに連載されていた高橋和巳の「我が心は石にあらず」は、毎回次の号が待ち遠しい思いで読んでいました。中国文学者でもある高橋和巳の文体は独特で重く、この小説も含め他の作も長編の社会派的な小説で、哲学的で思想的なインテリゲンチャの主人公が私的なささいなことで破滅していくといったストーリーが多いのですが、なぜかとても共感を覚えたものです。高橋和巳は39歳の若さで癌のために亡くなりましたが、高橋和巳全集は、今でも私の書棚の一番良い場所を占めています。
  と、ここまで書いて、いや自分の人生にもっと決定的な影響を与えた本があったはずだと思い出したのは、ナチスの大虐殺の犠牲となったユダヤ人少女の書いた「アンネの日記」です。今も私の手元にある同書は、皆藤幸蔵訳で、昭和34年12月に文藝春秋社から発行(初版は昭和27年12月)、定価はなんと190圓とあります。私の手持ちの本の中で一番古いもので、本文の紙は赤茶けてかなりボロボロになっています。裏表紙には、当時中学3年生であった私の稚拙な字で、「アンネ・・・不滅の少女 川端康成」と書き込みがありますが、多分、川端康成もこの本を読んで感動したことが、当時の新聞にでも出ていたのだと思います。

  思えばこの本は、私の一番多感な年頃に読んで、その年頃ならではのさまざまなインパクトを私に与えました。まず、同じ年頃の女の子の内面に迫れたということ。九州の片田舎で、小学校時代ならいざ知らず、「男女席を同じうせず」の中学校時代に、遠く憧れる女生徒はいても親しく話すことなど皆無でしたから、洋の東西は違っても、同じ年頃の女の子の精神性に深く触れた思いがして、アンネに恋心みたいなものすら感じたのでした。アンネは、早熟で、感受性が強く、とても頭の良い女の子であったそうですが、日記に書かれている出来事や胸の内の描写は優れて文学的であり、自分には不可能なレベルだと感じました。最も感動させられたのは、隠れ家での2年間にわたる異常な生活の中でも、アンネの心の優しさや温かさ、強さが少しも失われていないことです。機知に富んだ明るい性格が隠れ家生活の家族等を、いかに和ませてくれたかと推測します。
 そしてなにより、アンネの日記が私の思想の根幹に作用したのは、捕虜収容所でのアンネの死という現実を突きつけられて、全体主義的なものへの絶対的な嫌悪を植え付けられたことです。ヒトラーナチススターリン共産主義ソ連ポルポトカンボジアなど、世界史的に大きなおぞましい事件を起こした国家は、すべて全体主義独裁国家です。ナチスの捕虜収容所の所長は、朝にリルケの詩集を読み、昼にはガス室のコックを開いて大勢のユダヤ人を殺していたということですが、一人の狂信者に妄信的に従う人間の愚かさを徹底的に示しています。
  民主主義、人道主義、平和主義こそ人類が追求して行くべき普遍の価値であって、それに反するいかなるものにも絶対に立ち向かっていかなければならない。今、幼い孫3人を持つ身となって、その思いはますます強く確固としたものになっています。
  わずか13歳から15歳までの間の一人の少女の日記ですが、一人の人間が生きた崇高な記録として、後世まで読み継がれていくべき一冊と思います。アンネ一家が2年間住んでいた隠れ家は記念館としてずっと保存公開されているそうなので、いつかオランダに旅してぜひ訪ねたいと願っています。