先日、ある用事があって、出張先から職場に戻る途中に娘の家に立ち寄ることになりました。ちょうどYちゃんが幼稚園の遠足が終わって駅で解散する時間になるので、そこで娘とYちゃんとKくんに合流。娘から、「Kを連れて市役所に寄ってから帰るので、お父さんはYと一緒に先に家に行っといて」と言われたので、私はYちゃんと2人で歩いて家に向かいました。
  駅から家までは約15分ほどの距離ですが、歩き始めるやいなや、Yちゃんはいろんなことを話しかけてきます。まずは、遠足では、年少組にもならない2歳の女の子の世話をしてあげたこと。「おじいちゃんは知らない子だけどさあ」という注釈つきです。世話好きなYちゃんにとっては、楽しい年長組の役割のようです。
  次に突然、「おばあちゃんの昔のお名前は何というの?」と聞いてきました。妻の旧姓を教えてやると、「じゃ、おじいちゃんのお母さんのお名前は?」とのこと。母の旧姓を教えてあげると、「おじいちゃんとか、おじいちゃんのお父さんはお名前変わらないんでしょ?」と不思議そうです。「そうだけど。Yちゃんは結婚してもお名前変わりたくないの?」と聞き返すと、「うん。Kちゃんと結婚したらお名前変えなくともいいの?」と言うので、「きょうだいで結婚はできないよ。でも結婚したら必ず男のほうの名前に変わらなきゃいけないんじゃないんだよ。女のほうの名前でもいいんだよ。二人でよく話し合って決めるんだよ。おじいちゃんはYちゃんの名前が変わるのはイヤだな」と告げましたが、Yちゃんは何か腑に落ちない様子です。
 以前、何かの折りに、娘が結婚前には私や私の妻と同じ姓を名乗っていたことを知って以来、Yちゃんの心の中に、姓が変わることへの関心が根付いていたようです。私は、家族としての一体感を保つためにも、夫婦別姓ではなく同姓が良い。ただ、必ず男性側の姓を名乗る必要はないと思っています。これまでの日本社会では、結婚して姓が変わることに特段の抵抗のない女性が多かったように思うのですが、男女平等の考えを徹底していくと、現状のままではやはり問題がありそうです。男女平等の原則と夫婦同姓の今の制度を、上手く両立させる方法がないものかどうか。Yちゃんが大人になって悩んだり得心が行かなかったりすることがないよう、願うばかりです。
 この後にYちゃんが提起した話題は、さらにシリアスなものでした。「おじいちゃんのお父さんはどうして亡くなったの?」との問いに、「病気だよ」と答えると、「何の病気?」とさらに聞いてきます。「癌という病気」というと、「じゃお母さんはどうして亡くなったの?」と聞いてくるので、「病気だよ」と同じ答えをすると、また「何の病気?」との問い。母もやはり癌だったので、「癌だよ」と答えていくうちに、Yちゃんのパパのお父さんも癌で亡くなられたし、この話題が続くことは避けたいと思い、「人間はうんと歳を取ったらみんな亡くなるんだよ」と話題を逸らします。
  そしたらYちゃん、「亡くなったらどうなるの?」と聞いてきました。大切な質問ですので、大人としてはここできちんとした説明ができないといけないのですが、私はややうろたえ、「人間は死んだら身体は無くなるけど、心は生き続けるんだよ」と答えてしまいました。私の宗派である親鸞さまの教えに従えば、「お浄土に行って仏さまになる」と言いたいところですが、とても子どもには分からないし、そもそも死後の世界は誰にも分かりません。さらに続けて、「亡くなった人はお星さまになって、天の上からみんなを見守ってくれているんだよ。亡くなったパパおじいちゃんもきっと天の上からYちゃんが元気で良い子でいるように見守ってくれているよ」と言葉をつなぎましたら、Yちゃんは「ふーん」と何かを感じている様子。もっと適切な答え方があったかもしれませんが、ただ、この問題については現実的に答えるのではなく、神秘的な部分を残しておいた方がよいし、子ども心にも亡くなった人への敬慕の念が湧くような言い方がよいと思っているところです。
  
  それにしても、無邪気に私をたじたじとさせたYちゃん。どうして私と二人きりになったときにこのようなことを聞いてきたのか考えてみました。妻の話によると、Yちゃんの幼稚園ではときどき、特別養護老人ホームに慰問に行き、そこでYちゃんと特に仲良くなられたお年寄りがおられるそうです。Yちゃんはその方に歌を歌ってあげたりするとか。ホーム全体では、眠ったように過ごすお年寄りも多くおられるでしょうから、幼稚園の子ども達は、お年寄りとの交流の一方で、老いとか死とかについても、自然と感じるようになるのかもしれません。
 以前Yちゃんに冗談まじりで、「おじいちゃんちの子になるかい?」と聞いたら、即座に「イヤだ。おじいちゃんは家族じゃないもん」と言われてしまいました。Yちゃんにとって一番大切なのはパパ、ママ、Kくんという家族であり、大好きなおじいちゃん、おばあちゃんのところに一人でお泊まりすることなどはできても、自分の「家族」から離れた存在になることなど、及びもつかないことのようです。そのような意味でYちゃんは、家族という概念を中心に子どもなりに種々考えるうち、同じ家族であったのに(結婚して)姓が変わったり、特養ホームでの体験も踏まえ、祖父母やそのもっと前の世代から順々に亡くなっていく世の中の仕組みに関心を持ち、確かめたいことが出てきていたのではないかと思います。
  そして、そのような話題に一番乗ってくれそうなのが私というわけで、私と二人きりになった機をとらえてさっそく質問をぶつけてきて前述のようなやりとりになったという次第のようです。話題が重かった割にはそこは子どものYちゃん、自分の家に帰ってきてママや弟とまた一緒になったら、今までの話題を忘れたかのようにはしゃぎ廻っています。お土産に私が買ってきたシュークリームの自分の分をぺろりと1個食べ、次には弟の分まで狙って、「Kちゃん、お姉ちゃんが食べさせてあげるから少しだけ頂戴!」と、半分に割ってKくんに握らせて、残り半分をKくんが「いいよ」とも言わないうちに食べてしまいました。その後さらに、野菜ポッキーなるものを食べはじめ、Kくんにも持たせていました。幼稚園から帰ってきたときは、お腹が空いてたまらないようです。
 Yちゃんたち、幼な子のエネルギーに圧倒されるとともに、未来へと続く家族や人の世の絆を感じさせられて、なぜだかとても明るい気持ちに包まれました。