「人生が二度あれば」

  仕事上の少し大きな行事が終わったので、しばらく控えていたオートバイに乗って、一人で河口湖の小屋に泊まりに行ってきました。ここの楽しみは、昭和30年代の気分に戻れるところ。築30年超のオンボロの小さな小屋で、まずは雨戸を全部開け、掃除機を掛けまくった後、外が暗くなるまで小林秀雄全集を読みます。昔買って「積ん読」ならぬ「飾っ読」状態であったので、小屋に持ち込み、一念発起して全巻読破に挑戦しているのですが、古き良き昭和の時代に生きた硬派の文化人の批評や随筆は、やや難解なものの、とても味わいがあります。
  ようやく薄暗くなり、19時頃から、いよいよ一人宴会の始まりです。湖の近くのスーパーで買ってきた総菜やつまみを肴に、この季節は氷を入れた焼酎のソーダ割り。焼酎は、福岡県人として一生を終わった亡き父の大好物でした。そして極めつけは、レコード鑑賞。今回、冒頭にかけたのはチャイコフスキーの「白鳥の湖」ですが、このレコードは、高校生の頃、ボリショイバレー団(レニングラードバレー団だったかも?)の舞踏映画を観て大感動し、早速買い求めたもので、昔懐かしい25cm盤です。さすがにいくつか傷が付いているようで雑音混じりですが、豊かな音色は相変わらずです。
  以降は、飲むのとレコード盤の管理(裏返したり、新しいのをかけたり)を交互に行いながら、夜が少しずつ更けていきました。そのような、酔いもだいぶん回ってきている状況の中で、「おや面白い」と思ったのが、井上陽水のライブのファーストアルバム「もどり道」の中に収められている「人生が二度あれば」でした。四国出身ながら外地から引き揚げ後、福岡県で歯科医を開業し、息子(陽水)に跡を取らせたかったが叶わないまま老後を迎えた父と母を描いた、次のような歌です。
 父は今年二月で 六十五
 顔のシワはふえて ゆくばかり
 仕事に追われ
 このごろやっと ゆとりが出来た
 父の湯飲み茶碗は 欠けている
 それにお茶を入れて 飲んでいる
 湯飲みに写る
 自分の顔を じっと見ている
 人生が二度あれば
 この人生が二度あれば

 母は今年九月で 六十四
 子供だけの為に 年とった
 母の細い手
 つけもの石を 持ち上げている
 そんな母を見てると 人生が
 だれの為にあるのか わからない
 子供を育て
 家族の為に 年老いた母
 人生が二度あれば
 この人生が二度あれば

 父と母がこたつで お茶を飲み
 若い頃の事を 話し合う
 想い出してる
 夢見るように 夢見るように
 人生が二度あれば
 この人生が二度あれば
 人生が二度あれば
 この人生が二度あれば
 この人生が

  陽水のごく初期の歌のためか、詩もメロディも「少年時代」や「心もよう」などに比べてあまりパッとしませんし、親子や兄弟など肉親の愛情や機微を描いた歌ではさだまさしに全然かなわない気がします。ただ、レコードジャケットの裏に自筆で書いた自身の年史がプリントされているのですが、それを読み、ライブ会場での語りも併せてこの歌を聴くと、なかなか面白いのです。
  つまり、陽水は歯科大学を2浪しても受からず、仕方なくシンガーソングライターになったそうですが、この歌詞をよく読むと、敗戦でやむを得ず引き揚げて来た上に、不甲斐ない息子には期待を裏切られた父親の無念を思い、子どもを産み育て、家族のために働き通しだった母親を思いやっています。そして、叶わぬことが分かっていながら、二人にもう一回最初から、もっとましな人生を送らせたいと願っている内容なのです。
  私の父も質実そのものの働きづめの人生を送り、東京の大学に出した息子(私のこと)にもささやかな期待をかけたが叶えられずに終わったと言える辺りが同感できます。ただ、もう一度人生を送りたいと私の父が希望したとは思えません。きっと、陽水の父母もそうだと思います。どんなに苦労の多かった人生でも、自分が送ってきた人生が一番だと誰もが考えるのではないでしょうか。たった一度の人生だから、誰もが一生懸命に頑張るのであり、たとえ結果として実り少なくとも、頑張った自分にそれなりに満足するものだと思います。
  ただ、人生はもう少し長いほうが良い。陽水の父母も長生きをしていれば(今もご健在かもしれませんが・・・)、音楽家としての息子の大成功を見ることができたでしょうし、3人の孫の成長も見ることができました。私の父母も、もっと長生きをしていれば、私ももっと親孝行ができたし、2人の孫の幸せな家庭を訪ね、3人の可愛いひ孫と遊ぶこともできました。
  現在、日本人の平均寿命は、男性が79歳、女性が86歳と言われていますが、まだ短い。それぞれに100歳くらいまでに伸びて、しかも健康寿命であれば良いと思います。働ける人は何歳までも働いて社会に貢献し、税金も納める。そうすれば日本の生産力人口の減少の影響も少なくなり、経済の衰退もくい留めることができます。私も、孫3人が社会人となり、家庭を持つ辺りまで見届けることができれば最高です。
  というわけで、私がこういう歌を作るならば、タイトルは「人生が二度あれば」ではなくて、「人生がも少し長ければ」となります。てな、どうでもよいことをあれこれ想念しながら、一人宴会は、昭和30年代にタイムスリップした小屋の中で、いつまでも続いたのでした。