「すずめのかあさん」

  テレビを観ていて、あるコマーシャルが始まると、必ずいたたまれない気持ちになって、胸が痛んでいます。
  それは、田舎のおだやかな光景の中に、子どもと母親が幸せそうにたたずんでいる場面にかぶせて、金子みすゞの「すずめのかあさん」という詩の朗読が流れる某社のコマーシャルです。
 子どもが
 子すずめ
 つかまえた。

 その子の
 かあさん
 わらってた。

 すずめの
 かあさん
 それみてた。

 お屋根で
 鳴かずに
 それ見てた。
というもので、誰もが雀のお母さんの気持ちになって胸が痛む詩ではありますが、実は私にはもっと痛切に、罪悪感を伴ってこの詩を聞かなければならない過去があり、人並み以上にいたたまれない気持ちになるのです。
  昔、小学校の高学年の頃、親友に牧師の息子がいましたが、その彼と、彼の家の隣に建つ教会堂の軒先の雀の巣からヒナを取ってきて、手乗り雀に育てようとしたことが何度かありました。やっと羽が少し生えてきたくらいのヒナを捕まえてきて、耳かきの先のようなものにご飯粒をこねたのを付けてくちばしの中に入れてやったり、青虫をちぎって生き餌としてあげたりしましたが、たいてい2日と保たずにヒナは死んでしまいました。
  神の愛を説く教会堂の上に登り、付属する幼稚園の先生達の冷たい視線を浴びながら二人でこのような暴挙に出ていたのですが、先生達から一度も叱られたことがなかったのは、多分、親友の父が幼稚園の園長も兼ねていたためだったと思います。
  もっとも、その頃の私たちにはそういう行為が良くないことだという意識は全然ありませんでした。私も彼も動物が大好きで、十姉妹やカナリアなどを飼って卵からヒナを生ませたりもしていましたし、中学生になってからはそれぞれの家の庭に鳩小屋を作って、伝書鳩も飼いました。材木と金網を買ってきて高さ1.5メートルほどの小屋を自力で作っていたのですから、二人ともかなり器用だったと思います。伝書鳩は繁殖力が強く、数も増えて、小遣いから出すえさ代も大変だったことを覚えています。
  そして私は、長じても小鳥を飼うのが好きで、インコや文鳥を飼って手乗りにしたり、子どもが地域のお祭りでヒヨコを買ってきてそれが成鶏になったときは、1羽じゃ可哀想だからと、ペット屋からつがいのシャモを買ってきて一緒に育てたこともあります。
 愛犬と愛鶏が遊ぶ。両者とても仲が良かった(我が家で、1990年)。
  いずれにしても、前述の雀のヒナ以外は、どの鳥も天寿を全うさせ、亡くなった後は庭の片隅に埋めて、葬ったものです。雀のヒナの件も、特段に思い出すことはなかったのですが、ただ、1年ほど前に偶然、「すずめのかあさん」のテレビコマーシャルに接してからは、良心の呵責に耐えかねるほどの苦痛を味わっています。孫が出来て、幼いもの、か弱いものに対する慈しみの気持ちが強くなっていることももちろん関係しています。
  死なせたヒナにも、その母鳥にも本当に申し訳なかった。子どもは時として残酷なことをすると言いますが、それは決して意識してやっていることではない。残酷であることを気がつかないだけですから、周囲の大人がよく言って聞かせなくてはならないと思います。大昔の行動への贖罪のために、また、孫たちに小さい生き物への正しい愛着を教える大人の責任を忘れないために、このコマーシャルが流れても、敢えて逃げないようにしている私です。