思えば遠くへ・・・

  新年になって、コンサートづいています。ミューザ川崎での新春ウインナワルツコンサート、台東ミレニアムホールでの日本スペインギター協会主催のニューイヤーコンサートと行ってきて、2月には両国国技館での第九のコンサートにも行く予定です。そして、これらクラシック音楽っぽいものに混じり異色だったのが、「海援隊コンサート」。横浜パシフィコの大ホールで開かれたある福祉団体の記念式典に招かれ、その後のアトラクションとしてこのコンサートが開かれましたが、とても楽しいものでした。
  コンサートはまず「贈る言葉」の演奏から始まりましたが、感心したのが音響の素晴らしさ。ボーカルの武田鉄矢を挟んでギターの中牟田俊男と千葉和臣が両隣にいる、たった3人だけによる演奏ですが、4、5千人は入れる大ホールいっぱいに全然音割れもせずに大音量が拡がって、ライブの興奮が盛り上がります。この辺り、アンプの性能や舞台上左右の巨大なスピーカー等、我が国の音響技術の粋が生かされているのだと思いました。
  そして、曲と曲をつなぐ間の武田鉄矢トークが最高に面白い。「贈る言葉」は、中学生が卒業する時に式で歌う曲として作ったのではなく、大学2年の時に振られた女のことを思い出しながら作った歌だということから始まりました。福岡の天神の雑踏の中でその子の手を握りしめて「別れんで」と哀願したが、その子は「大声ば出すよ」と威嚇しながら、手を振りほどいて消えていったとのこと。泣きじゃくりながら家に帰ったら、あの「母に捧げるバラード」で描かれている母親から、「どげん別嬪でん、おなごは歳とったらみんな同じ顔になるたい。元気ば出せ」と慰められたそうです。
  以下、数年前に心臓手術をして命拾いをした話やそのことを題材にした新曲の披露も挟みましたが、コンサート時間の大半は、郷里福岡の母親や、小、中、高、大学時代の友人等の言動をネタにしたトークでした。それが、昭和24年生まれの65歳ということから、自分も含む中高年を揶揄するネタとも絡み合い、綾小路きみまろの漫談のような面白さです。
  しかし、私にとって、綾小路きみまろの漫談よりもさらにお腹の底から笑えて、かつ、しみじみとしたペーソスも感じたのは、私は武田鉄矢よりはやや先輩ですが、同じ福岡出身で、ほぼ同時代を過ごしてきたからだと思います。彼はやや小柄ながらがっちりとした体躯で、顔が大きく足は短めですが、郷里の従兄や友人にもこんな体型の人はたくさんいます。昭和30年代頃の、みんな貧しかったがみんな元気だった話も同感できることばかりでした。また彼は、福岡学芸大学(現教育大学)の出身ですが、私の姉夫婦も同じ大学を出て2人とも県内で教員をしていましたので、親近感が湧きました。
  彼が小学生の頃、みんなの家にはクリスマスにサンタクロースがやって来るのが羨ましくて、「なんでうちには来んとね」と母親に問うたところ、「うちは浄土真宗じゃけん、そげなもんは来んと」と言われたとのこと。我が家も浄土真宗でしたが、この宗派はサンタクロースを来させないほど了見の狭い宗派ではありませんので、彼の家が単にサンタのプレゼントを買うほどの余裕がなかっただけではないかと思います。武田鉄矢は5人兄弟の末っ子だそうです。ちなみに、私も子どもの頃にサンタクロースからプレゼントをもらった記憶はありません。
  彼の父親が肺がんで72歳で亡くなる少し前、病床で「鉄矢にひと目会いたか・・・」と漏らしたところ、母親が「あの子は1時間出てなんぼの仕事をしよっとやから、無理なこつば言うちゃいかん」とたしなめたという話には、可笑しいやら、少ししんみりするやら。武田鉄矢がテレビの「金八先生」で主役を務めるなど、絶頂期の話です。それにしても、彼のみならず、福岡には芸能人となって成功する人が多い気がします。梓みちよ井上陽水中尾ミエ松田聖子、等々。歌舞音曲が好きで、目立ちたがり屋が多いと言うことでしょう。私にはまったくそのDNAはありませんが、私の母も、三味線や日舞が好きで、「博多どんたく」のときには博多の街を練り歩いたことがあるようです。そしてこのコンサートで一番再認識したのは、博多弁の面白さです。彼が母親や友人の言葉として語る博多弁の、軽妙な中にも含蓄があって標準語にはない奥深い表現力。浪花漫才に負けない、「博多にわか」という郷土の話芸もありますが、武田鉄矢トークはまさにそのような域にあると感じました。
博多人形(インターネットから)
  終わり近くになって、武田鉄矢の3大ヒット曲の一つ、「思えば遠くへ来たもんだ」を会場も一緒になって歌うという趣向がありました。この曲は昔から私が好きな曲の一つです。出だしの「踏切りの側に咲く コスモスの花ゆらして 貨物列車が走り過ぎる そして夕陽に消えてゆく・・・」や、半ば頃の「筑後の流れに 小ぶな釣りする人の影 川面にひとつ浮かんでた 風が吹くたび揺れていた・・・」が特に良い。福岡は政令市で大都市とはいえ、その郊外や、少し足を伸ばした悠久の大河「筑後川」流域の風光の素晴らしさを、数時代前ののんびりとした環境とともに思い出させ、思わず涙がにじむ時もあります。彼が舞台の上から会場につき出したマイクに向けて、私も思い切り大きな声で唱和したのでした。
  郷里を出てはや半世紀余、私たち夫婦や子どもたち一家はもちろん、姪や甥の一家も、さらには叔母たちもその子を頼って出てきて、みんな首都圏で居を構え、向こうに残っている親族の方が少なくなりました。福岡県人であることを公的なものに留めたくて、本籍地は今も福岡市内にしていますが、いろんな不便さも勘案してお墓だけは首都圏に移そうかと考えもするこの頃でしたが、やはりもうしばらくは福岡に留めておこう、そのほうが父母や亡くなった妹の心に適うことだと、このコンサートで改めて福岡の素晴らしさを思い出して考えたことでした。首都圏では、あと30年以内というか、明日にでも起きかねない大地震のリスクが、向こうの方はうんと少ないということもあります・・・