もう一つの「戦後70年」・・・電柱と看板とコンクリートの国・日本

今年は戦後71年目なのでやや古ネタのテーマですが、平和の問題だけではないもう一つの「戦後70年」の問題として、戦後の日本で当たり前のように進められてきたことを、もう一度考え直してみたほうがよいのではないかという話です。アレックス・カーさんという、日本に永く居住し、環境問題等に発言しているアメリカ人が書いた「ニッポン景観論」(集英社新書)を読んで、言われてみればその通りと、共感できること多々で、日本人として大いに恥じ入りました。
  カー氏は、かつて美しい景観を持っていた日本は、戦後の70年で、見事なまでに国土を汚してしまった。今も無神経な破壊の道中にあると言い、その証として様々の例を示していきます。
  まず、電信柱。電線がぶら下がったコンクリートの柱が、都市部の街中といい地方の過疎地といい、日本全国に溢れています。我々が外で見る光景は、常に電柱や電線越しとなっており、慣らされていて普段はあまり意識しませんが、よく見ると実に醜悪な光景です。先進国では地下埋設が常識だというのに、日本で埋設化が進まないのは、費用が嵩むのと地震が多いからというのが理由にされているようですが、日本でも一部の特定の地区や新しく開発された地区では埋設化されていますので、やってできないことはないはずです。地震の際の電柱の倒壊も危険は大です。
  次にカー氏が挙げるのが、これまた日本全国に溢れる野立て看板や広告の類。街中や観光地、はては電車の沿線等まで、商品等の広告や案内、注意等の看板が、とにかく少しでも目を引こうと、色とりどり、大きさもばらばらに立てられたり、貼られたりしています。お節介な看板を出すのは役所も同じ。「○○宣言都市」などという、薄汚れた立て看板がよく目に付きます。苦笑したのは、総合電機メーカーの日立が全国の社寺に同じ様式で出している「重要文化財・○○寺」等といった案内看板。社寺名等は漢字で表示されていて、この無料看板の提供者である日立の名称だけがローマ字なので、外国人にとっては意味の分からない、単なる広告看板にしか見えないそうです。
  そして、カー氏が、規模が大きくて自然環境の破壊に繋がっていると断言するのが、全国の山や川、海等で行われているコンクリート化工事。自然災害の多い日本ですからどうしても多くなるのでしょうが、自然環境や景観の保持には無頓着に、必要以上にコンクリート化が進んでいると見ています。欧米では決してそのようなことはなく、1年間のコンクリートの使用量は、なんと日本はアメリカの33倍もあるとか。これらの工事の多くは、景気浮揚対策のための公共工事として行われましたが、その効果は一時的で、ダムや高速道路等も含め、ムダなものが多いことは日本人でもよく分かっています。
  このほかカー氏が指摘しているのが、高名な建築家による○○タワーや○○ホールといった建築やモニュメントの多くが、周囲との調和を無視して、奇抜で人々をビックリさせるようなものが多いこと。日本では秋になると街路樹からの落葉対策として、枝をすべて落としてオブジェのように丸裸にしてしまうこと。欧米では樹姿を尊重してそのまま残し、落葉は収集車を巡回して集めているそうです。また、都市や農村などどこにでも、物を囲ったりするのにブルーシートが使われているが、このような人工的な色の氾濫を日本人は何とも思わないのだろうかと不思議がっています。
  また、日本全国、あらゆる施設に「ふれあい」○○と冠したり、○○「文化」会館と称するようなのが流行る画一性や、「癒やし」という言葉が流行る一方で過労死が後を絶たないなどの逆説的な現象等も指摘しています。 

  以上に述べたようなことの証として、この本にカー氏は、多くの写真を掲載していますが、これでもかというくらいに突きつけられる醜悪な光景の写真を見ていて、日本人として、さすがに私も自己嫌悪に落ちてしまいました。
 反論もできないことは、我が家の存在する町で私が撮った、次のような光景を見ても明らかです。1枚目は、電柱・電線と野立て看板の氾濫が一緒に収まっています。私の生活圏内にあり、毎日目にしています。

  2枚目の写真は、孫と一緒に地元を流れる2級河川まで遊びに行ったときに撮ったものです。かつてこの川が氾濫して両側の団地が水浸しになったという理由で、その後、両岸ともコンクリートで覆われ、土手の古い桜の木も伐採されました。他に方法はなかったものかという思いは、みんな持っています。

  カー氏は、これからの日本は、例えば公共事業は、足し算ではなく、引き算でなければならないと言います。電柱の地下埋設化を促進したり、山、川、海から不要なコンクリートを剥いで緑を復元するなど、「国土の大掃除」が必要。「何もない魅力」を大切にすべき、看板や広告類についても、野放しではなく、適切に規制をしていくべきだ、としています。
  「もともとアジアの魅力は混沌としたところ」だから、街中も文化も雑多で混沌としていてもよいのだと開き直る人もおり、私もそのような思いをしたことがありました。しかしカー氏は、そのような考えは文明開化後の日本人の、西洋との対比による自虐的なものである。江戸時代までの日本には、京都や江戸など、整然とした町並みと武家屋敷などの美しい住宅があり、今でも全国各地にそのような面影も残っている。それが今、古い町で解体や取り壊しが進み、その後は画一的な町に変わり続けていると危惧しています。
  実際、地方に旅行をしても、洋服屋や牛丼屋、コンビニ、スーパーなど、全国チェーンの企業や店舗が同じデザインや規格の建物で立ち並んでいたり、シャッター商店街や空き地や駐車場を見ることが多くなりました。
 
  このような日本ですが、円安等の影響でここ数年、海外からの観光客が増えているそうです。2020年のオリンピック・パラリンピックを控えて、さらに今後は増えることも予想されます。来日した外国人観光客をがっかりさせたり幻滅させないためにも、カー氏が言うように、古い町並みの保存や、引き算の公共事業の実施、景観保持のための適切な規制などをぜひ進めていく必要があります。
  少子高齢化と人口の減少が続く日本。これを逆手に取り、工業化をさらに進めるのではなく、かつての山紫水明の国土を復活させ、観光業を中心として、活気はあるが落ち着きのある国をつくっていけないか。戦後70年を節目に、日本全体でそのような考え方が出てきたら良いのですが・・・